丞成高校の近くにある温泉旅館という今吉の話だったが、歩けばそれなりの距離があり、辿り着くまでに似たような温泉旅館を幾つも過ぎた。これで誠凛との鉢合わせを『偶然』やら『たまたま』やらと主張するのは、どう考えても苦しいだろう。
 旅館に着いて、主将の今吉とマネージャーの桃井が旅館のフロントと話をしている間である。
「なんだよ……ここもポカリ売り切れかよ」
 玄関脇にある自動販売機の前で、桐皇の部員の一人が文句を言っている。旅館に来るまでに幾つかあった他の自販機の前でも、「ポカリが無い」「売り切れだ」と声を上げていた。彼は仕方なく他の飲料のスイッチを押したようだ。


青の迷(3)


 青峰はスポーツドリンクにこだわりなどは持っていないが、毎回、習慣のようにポカリを選んでしまう。
 今日は試合に出なかったのでほとんど飲まなかった水分補給用として持参しているドリンクも、当然のようにポカリだ。ポカリはスポーツドリンク銘柄としてはあまりにもメジャーであり、どこでも売っているので、スポドリなんてどれでもいいと思っている青峰には選びやすくもある。
 しかし、ずっと以前は、こんなにポカリばかりを飲んでなかった気もする。
 思い起こしてみると、青峰がポカリばかりを手に取るようになったのは中学に入ってからで――つまり、黒子がそばにいるようになってからだった。
(テツが……ポカリ、ポカリ、言うからな)
 青峰が知る限り、黒子はスポーツドリンク類はほぼポカリしか飲まない。
 黒子とスポドリのやり取りをすることが多かった青峰も、自然にポカリにするようになった。家にある粉末状の買い置きも、その頃からポカリばかりになり――ああ、そういえば、スポドリの粉末はポカリにしてくれと親にわざわざ頼んだ憶えすらある――別にポカリで不都合はないので、今でもそれが続いてしまっているが。
……俺は……
 こだわりがなかったはずのスポドリをわざわざポカリに限定してしまうほど、当時の自分は無意識にもこだわっていたのかもしれない。青峰のそばにいたあの小さな影のために。
 その些細なこだわりは、今ではもう無用なものでしかない。なのに、当然の習慣のように続けてしまうのはなぜだろう。

「あ、あの、青峰サン」
「ぁあ?」
「スッ、スミマセン……ッ!」
 桐皇バスケ部が数時間の滞在用として借りた、旅館内の畳部屋である。荷物を置いて、畳に腰をおろし、青峰が適当にくつろいでいたら。桜井が青峰を伺うように声を掛けてきた。
「あンだよ」
「お、温泉に……行かないんですか? みんな、もう、行ってしまって……早く行かないと……」 
 部屋には青峰と桜井しか残っていなかった。他の部員達は荷物を置くと早々に温泉へ向かっている。
 どうやら桜井は青峰が動くのをわざわざ待っていたようだ。
 一年でレギュラーなのは青峰と桜井だけであり、そのせいか桜井は何かと青峰の動向を気にしたり世話を焼いてくれたりする。別に悪い気はしないし、青峰もそれに乗じている部分が多々あるが。
 ハー、と青峰はさすがに呆れた息を吐いた。
「俺は汗かいてねーから、いーわ。お前は俺に構わず勝手に行っとけ、良」
「でも、青峰サン、温泉は全員で入ることに……
「ンなの、知ったこっちゃねーよ! てめぇは、行きたきゃ、とっとと行けっ!」 
 ぁああっ、スミマセン、スミマセン、スミマセン!と謝りながら、桜井が慌てて部屋を出て行く。
「ったく、女の連れションじゃねーんだから」
 誠凛のように保養目的でこの温泉旅館に泊まりに来たのならばともかく。
 練習試合後にここに立ち寄った桐皇は、宿泊せずに数時間滞在するだけなのだ。温泉後は短いミーティングをするのがせいぜいで、終電前に日帰りする予定である。一応は、「練習試合で疲労した肉体を温泉で癒す」というもっともらしい理由を今吉が付けてはいたが、青峰抜きでも圧勝したような練習試合でどれだけの疲労があるのやら。
 桐皇170−丞成39という今日の結果が今吉にとって満足いくものかどうかは知らない。
 しかし、この旅館にあえて立ち寄る狙いは、ウィンターカップの初戦で当たる誠凛との鉢合わせ以外にありはしない。青峰にしてみれば、温泉に入って誠凛の連中を煽るなんて小細工、あまりにバカらしい。みんなで仲良く入浴はもっとバカらしい。それでなくても青峰は試合に出ておらず、汗もかいてないのだ。そして、どうせ日帰りするのである。
 今日は昼寝できなかったし、この部屋で寝ていたほうがマシだろ、と青峰は畳にごろ寝する。
 でも。
(テツが……いるんだよな、ここに)
 黒子がこの旅館にいる。
 あの台風の日以来、黒子と逢っていない。
 いや、正確に言うと、先日の霧崎第一戦のように離れた場所から黒子の姿を眺める機会ならば何度かあったのだ。だが、声は掛けなかった。黒子を見掛けても、黒子は火神と一緒だったり、誠凛の連中と懸命にバスケをしていたりするから、青峰は声を掛ける気になれず、そのままになる。黒子がそんな青峰に気付いていたかどうかは知らない。どちらにしろ、この三ヶ月ほど、黒子とは会話一つ交わしていなかった。
 青峰は、したいことは勝手にするし、したくないことは面倒だからしない。
 けれど、

『お互い都内におるくせに』
 今吉の指摘は当たっている。
『なんや、自分に理由を作らな逢えへんとか、難儀やな。素直じゃない、ちゅうか』

……っるせぇよ」
 青峰が素直になったところで、どうなると言うのだろう。
 今回も堀北マイの写真集ではないことくらい青峰は予想していた。相手が丞成では、青峰が出る必要のないザコだということもわかりきっていた。ましてや、青峰は、温泉などに入りに来たわけではない。
 それでも青峰が今日の練習試合に付いて来た理由、それは。
――
 青峰は畳から身を起こす。ジャージのポケットに小銭を入れて、ぶらりと部屋を出た。


§


 偶然。
 たまたま。
 バッタリ。
 そんなものが都合よく何度も転がっているわけがない。あの台風の日だけだろう。
 この旅館に黒子がいるとは言っても、一人でいることはまず考えられず、誠凛の連中と一緒なのはほぼ決まっている。そういう状況で青峰が黒子に声を掛けたところで、一言、二言、の無意味なアイサツ程度にしか成り得ない。かと言って、黒子をわざわざ呼び出してまで逢う理由は青峰の中で作れない――今吉の指摘の通りである。

 少々入り組んだ廊下。シーズンオフらしく静まり返り、旅館内に客の姿は少なかった。
 今、青峰の足が露天温泉へと続くこの廊下をぶらりと歩いていくのは、その方向に自販機コーナーがあるからだ。水分補給用として持参しているポカリは冷えていないので、何か冷たい物でも飲んで気を紛らわそうかと思った。
 今頃、黒子は誠凛の連中と一緒に温泉だろう。桐皇の面々と鉢合わせしているところだろうかと少し思い過りはしたけれども。黒子とここで逢うかもしれない期待なんて、元より有って無いようなものだ。黒子が誠凛の連中と一緒にいるなら、青峰は声を掛けるつもりなどなかったのだから。
 が、廊下をぶらりと歩いていた青峰の足が止まる。
(っ……?)
 前方の自販機コーナーの脇にある竹製の長椅子の上に、仰向けになって寝ている者が見えた。
 あれは。
(テ、…………?)
 ありふれた白いTシャツ。ラフなジャージのズボン。風呂上りらしくて髪が濡れている。いつもは白すぎるほどの肌が赤く火照り、目元には濡れタオルが乗っていた。そのタオルに隠れて顔の半分は確認できないが、間違いない――黒子テツヤだ。
 あのぐったりとした様子。湯あたりでもしたのだろうか。
 青峰は一つ大きな息を吸い込んだ後、止めた歩を急いで再開しかけ、
(テツ……!)

「黒子」
 しかし、すぐに冷や水を浴びせられたかのように歩を止める。
 角度で青峰からは見え辛かったが、そいつは黒子のすぐ近くにいたらしい、長椅子の上で寝ている黒子に寄って体格のいい身を屈める。そうして黒子の様子をうかがおうとするそいつの広い背中が青峰の視界に割り込んできた。
 火神である。
「顔、赤ぇな。まだボーっとするか?」
……大丈夫です。さっきよりは、だいぶ」
「お前、どんだけ湯の中にいたんだよ」
「そんなに長くは……入ってないと思うんですけど。……すみません」
 俺はもうちょい温泉に入っていたかったのに、と火神が黒子の横でぶつぶつ呟いている。湯でのぼせた黒子を、火神がここまで連れてきたか付き添ったかしたようだ。
「水分、採っといたほうがいいぜ。なんか飲むか?」
「じゃあ、ポカリを……
「ポカリな?」
――。火神と一緒、か)
 黒子は誠凛バスケ部として保養に来ているのだ。火神が横にいるのは当然で、まあ、そんなモンだよな、と青峰は口元を小さく歪めた。疑似的に作った『偶然』の機会なんて、所詮この程度でしかない。温泉湯にのぼせたらしい黒子の様子が気にはなるが、付き添う奴がいるのなら大丈夫だろう。

 別の自販機に行くか、と踵を返し、青峰が廊下を戻り始めたら、
「ポカリ、ポカリ、っと……あれ? なんだよ、売り切れか」
 火神のそんな声が聞こえた。
「しゃーねぇ、ちょっと表ので買って来らぁ」
 そう言って、火神がやれやれと旅館のロビーのほうへ歩いていく。
(オイ、ポカリは、)
 表ので買って来る、というのはおそらく玄関脇にあった自販機のことだろう。だが、そこでもポカリは売り切れだったはずだ。旅館に来るまでに見かけた道端の自販機でも、ポカリが売り切れだと喚く奴がいた。この周辺のポカリの流通が滞りでもしているのかもしれない。
…………ッ)
 青峰は大股でスタスタと廊下を歩き出し、桐皇が借りている畳部屋へと戻った。自分のスポーツバッグの中を乱雑に掻き回して、水分補給用として持参しているポカリ入りのドリンクボトルを取り出す。それを片手に、黒子がいる自販機コーナーへとまた急いで向かう。
 濡れタオルを目元に乗せて長椅子で寝そべっている黒子は、いまだくてりとしていた。肌の赤みは次第に引いてきているようだが、それでも体中がかなり汗ばんでいて、Tシャツがべたりと貼り付いている。呼吸も依然おかしいままだ。これは早く水分やらねーと、と黒子にポカリのボトルを当然のように差し向けようとして――青峰は我に返る。
 過った既視感に、自嘲が込み上げた。
(俺は……何やってんだろうな)
 帝光中にいたあの頃、一軍のキツい練習にバテてしまった黒子に青峰は何度こうしてポカリを運んでやっただろう。スポーツドリンクなんてどれでも同じだと青峰は思っているはずなのに。もはや無用となった当時のポカリへの他愛ないこだわりを、今でもなお当然の習慣のように続けてしまうのは……やはり、この離れてしまった影のためなのだろうか。

 そんなことを思いながら、青峰はポカリのボトルを長椅子の上にトンと置く。
「ホラよ」
「あ……ありがとうございま……
 黒子が目元のタオルを退けて何気なさそうに青峰を見上げた。
「!」 
 のぼせて茫洋としていたその水色の眼が青峰を視界に入れた途端に大きく見開く。竹製の長椅子をキシと小さく軋ませて、黒子が上体を起こした。
 その黒子の視線を感じながら、青峰はそばの自販機に小銭を入れ、適当な缶飲料のスイッチを押す。
「久しぶりだな、テツ」
……青峰君」


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