じりじりとしたものが青峰の鼓膜を騒がせている。 じりじりとやたらとうるさい。 |
「ッ、ッ……ってぇ……ッ」 頬骨が灼けるように熱くて、脳髄までもずきりと響く。 「この、ンのつもりだ、テツ! 今のは完全に不意打ち――」 いきなり殴られた憤りとずきずきとする頬の痛みに眉間をキツく顰め、青峰が眼下を見おろすと。 薄闇に青白く映える華奢な躰がある。 青峰と下肢を繋げたまま乱れたシーツに背中を沈め、黒子は狭いベッドに力なく身を投げ出していた。青峰の横面を拳で殴り付けたその細い片腕を目元の上に乗せ置いて、青峰から顔を隠そうとしているようだけども。腕の下の剥き出しの唇はわななき、歯列は固く噛み締められ、そして、隠された目元から垂れ落ちていく雫がシーツをもう濡らしている。 それで、青峰は殴られた怒気を少し削がれてしまった。 「――。おい、テツ」 声をかけてみたが、黒子の噛み締められた口元は変わらず、顔を隠す腕もそこから動こうとはしない。返事どころか、まったく無視される。 ンだよ、と青峰は黒子のその白い腕を掴み取った。 「っ、ぁ」 腕の覆いを外されて、厚い水膜を張った黒子の双眸が青峰を見上げた。雫を帯びた睫毛が一度またたき、同時にはらりと雫がまたあふれ垂れていく。 「テ……」 黒子が泣いているのはわかっていたが、思った以上にぼろぼろな泣き顔で青峰は戸惑う。 セックスの最中に黒子に泣かれたことくらいあるが、これはどうもそういうものとは様子が違う。少なくとも、青峰を殴る前は黒子は泣いてなどいなかった。それが、どうしていきなりこうなる。二人で寝るには狭いこの安宿のシングルベッドの上で、さっきまでの黒子は青峰の思い通りに喘いでいたじゃないか。 ただ、青峰が肘の痛みに律動を一旦止めてしまったから、黒子が心配して―― (……チ……) 『大したことねーよ、こんくらい』 殴られた理由の心当たりがないわけでもない青峰は、内心で舌打ちする。 『そう心配すんなよ。だいたい、さつきも、お前も、他の連中も、ちっと大袈裟過ぎんだって』 青峰が口にした言葉。 あれは確かに少々タチの悪いものだったかもしれない。 黒子があんまり青峰の肘を心配して、せっかくの行為が中断されてしまっていたから。行為を続けたい青峰は、こんなの大したことねーよ、と黒子を宥め、適当な軽口で場を流そうとしただけである。 『外野はそうやって大袈裟に騒ぐけどよ。俺の場合は、怪我の一つ二つあったほうが、実はいいかもしれねーぜ? そのほうが俺のハンデになって、バスケがもう多少は面白くなるかも――』 もちろん本気で言ったわけではなかった。ただの軽口、ちょっと皮肉のきいた、笑える冗談のつもりだったのだ。いきなり殴り付けて泣くほどのことか。 (……いや……そういや、こいつ、冗談、苦手だっけ) 「殴られて痛ぇのはこっちだろ。なんで殴ったお前が泣いてんだよ」 「……そんなの、知りません」 「オイ」 「知りません。もう君なんか……知らないっ」 青峰に腕を取られながら、黒子がそう言い捨てて、泣き濡れた顔をぷいと横に逸らした。 「あーもー、わーったよ! 俺が悪かったっっ!」 俺が殴られて、なんで俺が謝ってんだよ、と思わないでもないが。 こうなると、黒子はとことん頑固だ。テコでも動かなくなる奴だと青峰はよく知っているから。 「こっち来いよ、テツ」 青峰は黒子の腕を引いて黒子の身を寄せる。 繋がったまま黒子をシーツから抱き上げ、小さく呻いた黒子の両腕を青峰の肩に乗せ掛けさせる。対面の座位に体位を変えた。意地っ張りにもいまだ青峰から逸らしている黒子の顔を掴んで、強引にも青峰のほうへと向けさせる。 「……っ」 「殴った奴が泣いてんなよ」 黒子の目元に唇を寄せ、雫が垂れる頬を舐め添ってやれば、黒子がひくりと肌を震わせた。 「ん……んっ、青峰く……っ」 青峰の背肩に乗せ掛けておいた黒子の両腕がそこで少ししがみ付いてくるのを感じて、青峰は密かに安堵の息を吐く。 「ったく。キスすりゃ噛むわ。最中にはいきなり顔面殴ってくるわ。お前、ちょっと暴力的だぞ。怪我人の顔を殴りやがって」 「……いいんです、顔は殴っても。顔でバスケするわけじゃありませんから」 ンだそりゃ、どーいう持論だよ、とあきれると同時に、まー、テツらしいわ、と青峰は可笑しくなった。 くっくっと笑って腹を揺らしたついでに黒子を乗せている腰も少しずつ揺らし始める。汗まみれの黒子の背肌を宥めるように撫でおろして、細いその腰をより囲い寄せながら下から突き揺らせば、青峰の背肩に回っている黒子のその腕にぎゅっと確かな力が入った。 「ン……っ、ぁ、あっ、ぁお峰、くん……っ」 青峰の耳元で洩れる黒子の声はまだヒクつくような泣きを帯びていて、それがやたらと甘く響く。殴られた仕返しにちょっと苛めてやろうかと思い過るほど。 けれど、青峰の鼓膜にはじりじりとしたものが鳴っている。青峰にしがみ付いて泣く黒子のかわいい嬌声の邪魔をするそのじりじりとした音が、どうにもうるさい。じりじりじりじりと先刻から一向に鳴り止まず、それどころか次第に音が大きくなっていく気がする。 オイ、うるせーんだよ、今いいところなのに、と思ったところで――青峰大輝は目が覚めた。 |
| § |
じりじりと目覚まし時計が鳴っている。 そのけたたましいアラーム音に強制的に起こされてしまった青峰の視界に映るものは、あの安宿の室内ではなく、黒子の顔でもなくて、見慣れた自室の天井だった。 「……」 夢かよ、と呟くことすら腹立たしく、億劫だ。 時計はうるさいし。顔の片側がなぜかずきずきと痛むし。寝起きの気分は最悪である。 目覚まし時計は青峰がセットしておいた時刻通りに鳴っただけであって、何ら悪い仕事をしているわけではないのだが。じりじりじりじりと不快なそのアラーム音のスイッチを、青峰は時計ごと叩く勢いでオフにする。それとほぼ同時、青峰の枕元にあったものがバサリとベッドの下へ滑り落ちた。 「っ?」 見れば、『堀北マイ特集!』と煽り文字が躍る表紙が床上でひしゃげていた。 昨晩、青峰が寝る前に眺めていた雑誌だ。巨乳グラビアアイドル堀北マイの巻頭カラー写真が六枚も載っている。確か、ベッドヘッドの小棚の上に乗せ置いてから寝たような気がするのだが、なぜか目が覚めたときには枕元にあった。 「……あー……この痛ぇの、もしかしてマイちゃんのせいか……?」 青峰はずきずきとする片側の頬を軽くさする。 目が覚めたときから、いや、むしろ目が覚める前から痛むこれは、夢の中のように殴られたものとは明らかに違う。ピンポイントで物がぶつかったような感じだ。おそらく何かの拍子にベッドヘッドから雑誌が落ちてきて、その角か背が眠っている青峰の顔に当たったのだろう。 黒子に殴られたあの晩の夢を見てしまったのは、どうもこの頬への衝撃のせいらしい。 どうせならば、もう少しオイシイところまで夢の続きを見られたらよかったのだが、ほぼ殴られた場面だけで目覚まし時計に起こされてしまった。殴られ損である。 (そりゃ……あンときのは、俺が悪ぃんだろうけどよ) 夏のインターハイで青峰が肘を痛めたのは三ヶ月以上も前のこと。 肘はとっくに完治し、後遺症も全く残っていない。 ザコな連中を相手にバスケをする気が起きないのは相変わらずのことだが、青峰の身体状況は万全に近い。三ヶ月前の肘の痛みがどんなものだったのかすら、もうほとんど思い出せないほどである。 なのに、あの八月の台風の晩に黒子に殴られたことだけは、なぜか時々青峰の脳裏に甦る。 (あんなの、ただの冗談じゃねーか) 青峰は軽くかぶりを振った。 今日は誠凛の連中と顔を合わせるかもしれない日である。だから、どうしても思考がそちらへ偏る。 とりあえず床でひしゃげている雑誌を拾わねばと、青峰はベッドから身を起した。 「っ」 と、朝から隆々と勃起してしまっている自身の状態に気付く。あんな夢を見たのだから無理もないが、青峰の顔が皮肉に歪んだ。 「……くっそ、が……」 床から拾い上げた雑誌は『堀北マイ特集!』で、昨晩の青峰は、その豊満な胸の女体写真を眺めてから就寝したはずなのに。青峰が夢の中で抱いていたのは平べったくも華奢な黒子の躰だった。今、勃起したモノを処理するために再びこの雑誌をめくってみたところで、あの夢の続きの黒子の泣き顔しか頭に浮かびそうにない。かといって、欲求不満な股間のモノを放置するわけにもいかない現実が差し迫っている。今日は日曜だが、出掛けねばならず、そのために目覚まし時計のアラームをかけたのだから。 はーぁ……とやる気のカケラも出ない溜息とともに、青峰は勃起した自身に片手を添える。 「まー、ついてない朝なんてこんなもんだろ」 呟いて、ガラにもなく自分を慰めてみたのだが。 今日の乙女座の「おは朝」運勢は最悪なのだよ――と緑間の声が聞こえたような気がして、手中のモノが少し萎えた。 |
| →(2)へ |
ブラウザを閉じてお戻り下さい