君の腕と雨の檻

(だから、俺が言っただろーが……!)

 東京地区インターハイ予選、決勝リーグ。
 桐皇112 ― 誠凛55
 青峰がわざわざ遅れて来たにもかかわらず、ダブルスコアで桐皇学園の圧勝だった。

(テツ――お前が誠凛(そこ)にいる意味なんて、)

序章 お前がそこにいる意味


 黒子がどうして帝光中バスケ部を突然に辞めたのか、青峰は知らない。
 それはおそらく自分のせいで、自分が悪かったのだろう、と青峰なりに思うところはあったものの、青峰は黒子のその本当の理由を知っているわけではない。
 ただ、黒子が皆の前から姿を消したときに、黒子が青峰にすら何も伝えなかったから。黒子のその理由を知る資格や、黒子にそれを問い質す機会までも、自分はいつの間にか失ってしまっていたのだと、それだけは青峰も理解した。

 ――青峰がバスケ部の練習をサボるようになった頃。
 コート上で黒子と拳を合わせることなんて、とっくになくなっていたのに。
『青峰くん……っ』
 コート外では、「練習に行きましょう」と青峰を捜しに来た黒子の細い腕を取って、青峰は黒子を好きに犯していた。二人の間のバスケがどうなっていようと関係なく、こいつはもう自分のモンだと思っていた。「駄目です、練習が……部活があるんですからっ!」と時と場所によっては少々拒まれることくらい無論あったけれども、あの小さな体を青峰の部屋に連れ込んでしまえば、さほど抵抗もされず、黒子は青峰の思いのままだった。
 だから、黒子も二人の関係に納得しているものだと、青峰は勝手に思っていた。
 そのくせ青峰は、あの頃の黒子がどんな顔をして青峰に抱かれていたのか、実はあまり憶えていないのだ。

……テツ)

 青峰がやけに鮮明に憶えているのは、己の下に組み敷いた黒子の折れそうなほど華奢な白い肢体と、そして試合のコート上で背中に感じていた黒子の視線である。
 物言いたげな影のその視線に、青峰はもはや振り向いてやらなかった。お前、いつまでそんな眼で俺を見てんだよ?と疎ましがって、煩わしさすら覚えていた。
 誰も彼も青峰のレベルにまで追い付けない。
 本気の青峰の所まで登って来られやしない。
 青峰に勝てるのは青峰だけだ。バスケをすればするほどに青峰はそれを実感し、突出してしまった自分の現実を思い知らされて独りで嗤った。
『青峰君よりすごい人なんてすぐ現れますよ』と――気休めのような影の言葉は、やはり空事でしかなく、その頃の青峰にはもう到底信じられるものではなかった。

 けれど、あの清水のような瞳で見詰められ続けていることに、青峰はどこかで小さな安堵もしていたのだ。ああ、こいつはやっぱり俺のモンだからよ、と思うことで周囲が離れていく孤高の辛さが、幾らかマシになっていた。その眼差しに。その白く細い体に。青峰は縋っていたのかもしれない。
 やがて、青峰はそんな状態が当然だとも思うようになっていた。
 影のその眼はいつまでも青峰に向けられ続け、青峰が独りでバスケをしていても、影は青峰の後ろでそうして青峰をずっと見詰めているものだと思っていた。たとえ青峰がコート上で影を顧みてやることが二度と無くても。
 身勝手だという自覚はあった。
 でも、どうしようもなかった。
 そんな二人の関係が歪んだものだったことくらい、青峰もわかってはいたのだ。わかっていたからこそ、黒子が何も言わずに姿を消したとき、青峰は黒子を捜さなかった。黒子が青峰に何も告げなかった以上、そうするしかないと思った。
 コートで黒子を顧みなくても、コート外でなら掴んでいるはずだと思っていたあの白く細い腕。その黒子の腕に、身勝手な自分はとうとう見限られて振り払われてしまったのだと。
 それを独りで納得するしかなかった。
 ――だが、青峰が納得したのはそこまでである。

(勝てないバスケに価値はねぇだろ……!)

 今さら振り向いてみたところで、青峰の後ろにはもう影はいないのだ。そして、バスケのコート上で振り向く気なんて、青峰には今でもありはしない。
 勝つことが全てのスポーツで、独りでバスケをする選択をした青峰は間違ってなどいない。
 青峰が後悔する必要なんてどこにもない。
 でも――。
 黒子に「新しい光」ができたと知って、無性にイラついた。
 そいつが昔の青峰とそっくりだと聞いて、まるで黒子に今の自分を否定されているかのようで、青峰はキレそうになった。その「新しい光」だという火神と1on1をしてみればどうだ。火神のあまりにも淡い光り具合に、青峰は落胆と失望をし、いっそう腹が立った。
 青峰に勝てるのは青峰だけだ。
 黒子の「新しい光」だと言っても、どうせ青峰以上の光には成り得ない。そんな奴は、この世に存在しないのだから。火神が青峰に勝てる奴ではないことくらい最初からわかっていた。火神が秀徳戦で足を痛めたこともまた知っていた。
 だが、その二つを加味したとしても、黒子の「新しい光」とやらは、青峰にとって期待外れ過ぎた。
 なんでそんな奴を「新しい光」にしたのかと、青峰は黒子をもう放っておけなくなった。
 それで、久々に黒子に会ってみれば。
『いーかげん、目ぇ覚ませ、テツ。な?』
『放してくださいっ!』
 黒子にそう拒絶された。
(テツ……てめぇ、なんのつもりだよ!)

 後悔なんて、青峰はする性質ではないが。
 中三の夏に無言で振り払われ、青峰の前から消えてしまった黒子のその細く白い腕。放置などせずに、帝光中にいる間に捜し出して掴み直していればよかったと――そのことだけは、青峰はもうかなり後悔し始めている。あの頃の歪んだ関係が続くだけになったかもしれないが、それでも、少なくとも、こんなバカげたことにはならなかったはずだ。
 全中三連覇後、帝光バスケ部を突然退部して青峰にも姿を見せなくなった黒子は、誠凛という無名の新設高校でバスケをする道を選んだ。そして、その誠凛で、黒子は火神大我という新しい光も選んだ。
 そこに黒子のどんな意図や理由があったかなんて、青峰は知らない。
 今さらそれを理解する気も起きない。
 けれど、勝てないバスケには、意味も価値もないだろう。
 そんなもの、青峰は認めない。
 ハナから勝とうとしない諦めたバスケよりは幾らかマシかもしれないが、今の黒子の選択はそれにごく近いものにすら青峰には思える。

 黒子は自分だけでは強くなれない。黒子の力は、そばに強い光があってこそ発揮できるものだ。それくらい黒子だってよくわかっているはずだろうに。黒子の力をまともに引き出すことすらもできない淡すぎる「新しい光」と、ザコばかりが揃ったチームで、どうする気なのか。
 ましてや。
『僕は、青峰君にも勝つつもりで決勝リーグに臨みます』
 なんの冗談かと思った。
『僕だけでは青峰君には勝てませんが、試合は僕一人で戦うわけではありませんから』
 あんな淡い光で、寝言を言ってんじゃねーぞ、と思った。
『僕は、僕の『光』になってくれた火神君を信じています。誠凛の先輩達やみんな、そして、火神君とのバスケで、君を――青峰君を倒します』
……くだらねぇ。カガミカガミカガミ、うるせぇ)

 黒子には、現実が何も見えていない。
 青峰が散々見てきた現実。
 思い知らされてきた現実。
 実感させられてきた現実。
 誰も青峰には敵わない、青峰には青峰しか勝てない現実だ。
(お前は……何もわかっちゃいねーんだよ)
 青峰よりすごい人なんてすぐ現れると。黒子のその言葉は、根拠のカケラもない気休めや希望や期待の妄言でしかなく、けして現実には成り得ないものだ。黒子のバスケ程度で青峰の前のこの現実が簡単に覆るのものならば、青峰は今こんなにも孤独であるはずがない。
 だが、青峰が口でどう言っても、どうせ、この頑固な奴は聞きもしないのだろう。
 だから、黒子にその現実を解らせてやることにした。

(お前は俺のだろ、テツ)
 影は光に勝てない。
 黒子の力は、青峰には一切通じない。
 黒子のパスを誰よりも取ってきて、黒子のことを誰よりも知っているのは青峰だから。その黒子の力を全て剥ぎ取って、今の黒子が信じていると言ったものの脆さと、くだらなさを、黒子の身に教えてやることにした。
 そうしたら黒子も理解するだろう――自分が誰のものか。
(今でも、お前は俺のモンなんだよ)
 ――あんな淡い光が黒子(お前)の「新しい光」だなんて認めない。
 実際、誠凛も火神も、青峰のいない桐皇相手にすら十点差をつけられていたザコでしかなかった。まして青峰が試合に加わったら、桐皇とまともに戦えるはずもない。黒子が誠凛や火神のどこに惹かれて何を見出していたのかは知らないが、嘲笑いたくなるほど弱かった。
(あんまり俺を、ガッカリさせんじゃねーよ)

 その上、黒子自身も、中学時代と何も変わっていなかった。
 黒子は去年の夏と何も変わらない。全中三連覇したときと同じだ、何も成長していない。
 少なくとも帝光中の一軍に入るため、そして、その一軍に居続けるために、黒子が黒子なりの技を磨いていた頃のような成長は、少しもしていなかった。シックスマンとしての黒子を巧みに導いていた赤司がいないせいもあるのだろうが、だとしたら尚更だ。
「やっぱ、結局、赤司が言った通りか……お前のバスケじゃ勝てねぇよ」
……ッ」
 黒子の力を全て引き出せない淡い光。
 不甲斐ない他のチームメンバー。
 選手の成長を促す指導者もろくにいない新設校。
 強い光がいなければ力を出せない影の身のくせに。帝光中バスケ部をわざわざ辞めて、青峰(光)の前から唐突に姿を消して、なぜそんなところに入った。
(お前が誠凛に……そんなチーム(ところ)にいる意味なんてあるのかよ……なあ、テツ!) 
 意味なんてあるわけがないと。
 たとえ何かしらの意味が黒子にあったとしても、それは無意味だったのだと、青峰がこんなにも示してやってるのに。

 パスも通じなくて。
 体力も尽きていて。
 黒子が「新しい光」に選んだ火神も――痛めた足の状態が悪化して交代させられ――今はもう黒子のそばにいない。
 ミスディレクションもとっくに切れているじゃないか。
「俺の勝ちだ、テツ」
 黒子の力の何もかもを、すっかり剥ぎ取ってやったのに。
……まだ、終わってません」
 なんでお前はいつまでもそんな眼をしている。
「バスケに一発逆転はねぇよ。もう万に一つも、」 
「可能性がゼロになるとすれば、それはあきらめたときです。どんなに無意味に思われても、自分からゼロにするのだけは嫌なんです。だから、」
 どいつも、こいつも、これだけ点差をつけられて、実力差を見せつけられたら、とっくにあきらめてしまうものなのに。青峰と対戦した奴等はそうやって棒立ちになるか、そうでなくとも無気力になってしまう連中ばかりなのに。

「あきらめるのだけは、絶対、嫌だ……っ!」

……テツ……ッ)
 もういいだろ。
 もうわかったはずだろう。
 なのになんでお前はそうなんだよ、と黒子を見て青峰は喉に出掛り、けれどもそれは言えなかった。
 誠凛にしても。火神にしても。黒子自身にしても。帝光の全中三連覇後に黒子がしてきたその選択の、どれ一つとして、青峰は認めたくないのに。
……一つだけ、認めてやるわ」
 黒子のあきらめの悪さだけは認めざるを得なかった。青峰の渇いた口の中が苦くて仕方ないほどに。

 桐皇112 ― 誠凛55
 
 こうなるだろうと、青峰には試合前からわかっていた。
 誠凛と黒子を打ちのめせるだけ打ちのめし、お前のバスケでは勝てねぇと、お前がやっていることなんて全て無意味でしかねーんだよと、残酷な言葉で抉るように現実を黒子に刻んで、そして、青峰が黒子に突き付けた結果はこれだ。
(けど、そんでもよ)
『容赦とか、手加減とか、そんなのされたら困ります。したら、怒りますよ?』
 黒子はそう言った。

(そんでも、これがお前の望みなんだろ……テツ?)



§

 試合終了の整列前。
 真正面からすれ違った青峰と黒子は、互いに声を掛け合うことなどなかった。視線をチラと合わることすらなかった。
 なのに、なぜだろう。
 すれ違い際の黒子の顔が、やけに鮮明に青峰の眼に焼き付いた。
 黒子は無表情な奴だと思われがちだが、そうではない。
 そうではないことを青峰は知っている。
 一見、無表情そうに見える黒子のあれは、帝光中バスケ部で赤司に見出されてから特に身につけて、やがて染み付いたものだ。表情を崩さずに一定に保つことによって黒子は自分の存在感をより薄めるようになった。
 でも、そんな黒子でも、青峰の前だと、よく笑って、怒って、可愛くはにかんで、それから――
 ……ああ、だが、いつからだろうか、黒子が青峰に対してもまるで凝固したような顔を向けるようになったのは。その固まった顔と物言いたげな眼で、あの頃の黒子はじっと青峰の背を見詰めていたのだ。
 そして、今日は。
『勝ってから言えよ』
 今日も。

「――……ノド、渇いた」
 喉が渇く。
 口の中がやけに苦くて苛々する。
 あんなザコを相手にして、さして本気で動いたわけでもないのに、青峰の喉が干乾びて貼りつきそうだった。
 持参していたスポーツドリンクは、どうも放置しておいた場所が悪かったのか、いつもよりぬるくなってしまっていてやたら不味い。飲んでも口内の苦さが収まらず、青峰は桐皇の控室を一人で出た。
 冷たい飲料を求めて自販機を探す。
 と。
「ッ」
 通路の角に設置された自販機コーナーの前だ。背凭れのない長椅子に座る小さな後ろ姿があり、青峰の足が止まる。
 白と黒と赤の誠凛のユニフォーム、11番。

(テツ……!)

 淡い色素の髪が汗に濡れている。白いうなじ。華奢な肩。リストバンドを填めた細い手首。汗まみれの誠凛のユニフォームが、項垂れた小さな背中にべたりと貼り付いていた。
 黒子は、前の自販機で買ったばかりらしいペットボトルを片手にしていた。だが、隣の座席に半ば置き据えているそれは横向きで、当然キャップが開いていない。中身も全く減っていない様子。わざわざ自販機の前まで出てきてペットボトルを買いながら、そして、あれほども汗だくの状態ながら、飲む気がないのか……飲む気力さえもないのか。
 あるいは、単純に、キャップを開ける力が出ないのかもしれない。
 ミスディレクションの効果時間には限りがあるため、通常、黒子は一試合を丸々出ることはない。今回も途中を少し抜けていたようだが、珍しくそれ以外はずっと出続けて、試合終了まで交代させられることはなかった。黒子にしては長時間出ていたほうだろう。それに、今日の黒子は特に力を使い果たしているはずだ。青峰の前で最後まであきらめなかったから。
……テツは、体力ねぇもんな)
 バスケットのような烈しいスポーツを日常的にしている者にしては、黒子は体力がない。
 帝光中一軍の部活練習では、限界まで体を動かした後に、よく死んだように伸びていた。
 あーあ、テツの奴、またかよ、と苦笑しながら青峰が伸びている黒子の元へポカリを持って行ってやるのだが。新たな缶やペットボトルだと、その蓋を開ける余力すらも黒子に残っていないことが多くて、青峰が代わりに開けてやることになる。そんなことが何度も続いたせいで、黒子がヘバってそうなときには、缶やペットボトルの蓋を青峰があらかじめ開けてから黒子に渡してやるようになった。黒子も、それを違和感なさそうに受け入れていた。二人の間のとても他愛ない習慣である。
 今の黒子がキャップを開けられないほどの状態なのかは知らないが。自販機の前の黒子は、手にしているペットボトルを座席に据えたまま身動きしない。ただそこにじっと座って俯き、どこか自失しているかのように見える。
(テツ……
 その黒子の所まで、青峰の歩幅で六歩か七歩だろうか。
 青峰がこのままあともう少し歩きさえすれば、届く所だ。
 あと数歩、歩いて、腕を伸ばせば、あの小さな背に簡単に触れられる。黒子が青峰の前から姿を消していたときとは違うのだ。今は青峰の目の前にいるじゃないか。
 そもそも青峰のほうから黒子を手放したつもりはない。
 今だって、黒子は青峰のもののはずだ。
 だから。
(テツ)
 逡巡は無論あった。
 しかし、立ち止まっていた青峰の足が、目の前のその小さな背に向かって一歩動いてしまう。
「――テ……
 数歩、歩けば届くのだ。先刻までの干乾びた喉の渇きすらも忘れて、さらにもう一歩、青峰は通路の床を踏んだ。
 が。

「おい、こら、黒子!」

……ッ)
 青峰の足はその二歩だけで止まる。
 自販機コーナーは通路の角に設置されている。青峰とは別の方向から、やたら響く声で黒子を呼んだ者がいた。
 俯いていた黒子が顔をあげて、そちらへ視線を向ける。
「火神君」
「ンなとこで何やってんだよ。早く着替えろって先輩達が」
「すみません……冷えてるものが飲みたくなって」
 黒子は長椅子から腰を上げた。
 少し不規則な歩調で自販機コーナーまでやってきた火神は、黒子の手元の、まだ飲まれていないペットボトル飲料に視線を落とす。
「? 冷えてるものが飲みたい、ってよ、お前」
 黒子のペットボトルの表面には、水滴がびっしりと付着している。自販機で買われてから少し時間が経っている証拠だ。
「なら、そのポカリ、とっとと飲めよ」
「これ……キャップがちょっと固かったんです」
「あ? キャップ?」
 おン前、どこの女子供だ、と火神は少し笑い、黒子からペットボトルをひょいと取り上げた。固いと黒子が言ったそのキャップを軽く弛めてから「ほらよ」と黒子に返す。
……ありがとうございます」
 弛められたキャップを開けて、黒子がようやくペットボトルに口を付ける。
「そういや、お前、今日はわりと出ずっぱりだったもんな。体力、尽きてっか。俺のほうは途中で交代させられちまってよ、体力だけは有り余って……
 言いながら、火神は何気なさそうに青峰がいる通路のほうへ視線を流した。
「ッ!」
 途端、火神の顔が一瞬で強張る。
 その朱い眼が苛烈な気色を帯び、浮き出た喉仏がコクリと蠢く。迸りそうなほどの憤りを全身にゆらと纏わせて、火神は数歩離れたところに立つ青峰を無言で睨め付ける。
「? 火神君」
 火神がただならぬ雰囲気で急に押し黙ったので、ペットボトルに口を付けていた黒子が小さく首を傾げた。ボトルのキャップを閉め、黒子は何となく青峰のほうを振り向きかける。
「黒子」
 が、火神が首に掛けていた自分のタオルを引き抜き、黒子の頭にバサリと被せた。
……っ、かが……?」
 それで、黒子の視界がいくらか遮られる。
「お前、汗で髪がスゲー濡れてっぞ。拭いとけよ」
 青峰がいることに気付いた様子はなく、頷いた黒子が火神のタオルで髪を拭き始めた。
「黒子……今日はよ、悪かったな」
「はい?」
「俺は、お前の光なんだろ? なのに、お前をコートで独りにさせちまった」
「――」
 火神がいなくても黒子はミスディレクションを使える。
 しかし、影としてのその力は、存在感のある光がコート上にいないと半減する。黒子のミスディレクションの効果切れが早かったのは、火神がいつものような存在感で動けておらず、おまけに足の状態が悪化して交代させられてしまったことも、非常に大きい。
「光とか、影とか、正直、今まであんまわかってなかったんだけどよ。光が影を独りにしちまうのが一番いけねーんだな。コートの外で見ていて、それがスゲーよくわかった」
……火神君、足、ちゃんと治してくださいね」
 ああ、わーってる、と小さく笑い、火神はタオルを被せた黒子の頭に手を置く。だが、青峰に向けた火神の視線は苛烈なままだ。
「しばらく試合に出してもらえそうにねーけど。次にアイツとヤるときは、お前をこんな目には絶対あわせねぇ……!」
 黒子に、というより、青峰にそれを宣言して、火神はタオルを被せた黒子の頭を促す。
「ほら、もう戻るぞ、黒子」
「はい」

§
 冷たい飲料を求めて自販機の元へ行ったはずなのに。
 黒子と火神がいなくなったあの後、改めて自販機で飲料を買う気にはどうにもなれず、青峰はイラつく心地で手ぶらのまま桐皇の控室に戻った。
 だが、喉はやはり無性に渇いているのだ。
 家から持参したスポーツドリンクを仕方なくまた飲んでみるも、それは当然ぬるまっていて、しかも、先刻よりさらに不味く感じた。
……――んだよ、これ。マズすぎだろ)
 口の中が相変わらず苦くてならない。
 その上、周囲がやたらうるさいのだ。
「よーっしゃッ! 決勝リーグ、初戦まずは圧勝――ッ!」
 いきなり叫ぶ若松。
「あー、わかっとる、わかっとる、そんな騒ぐなや」
 冷淡に水を差す今吉。
 ダブルスコアで勝利した後なのだから当然かもしれないが、桐皇の控室はくだけた雰囲気でやたら騒がしかった。勝利の熱気に高揚したまま笑い声や私語が幾つも飛び交う。
「秀徳を倒したから、どんなもんかと思えばよ。特に11番とか、終盤全然クソだったよな……! 最後までムキになってて、なんかサブっとか思ったし」
 はははっとした愉しげな談笑に混ざる黒子への嘲りに、腹が灼けるほど煮えくって、青峰は不味いドリンクを置く。
 まったく、なんでこんなにドリンクが不味いんだか。

「こんだけ点差が開いたんだからよ、とっととあきらめりゃいーのに」

 瞬間、ガンッ!とロッカーが派手に鳴り響き、談笑に満ちていた控室内の空気が一変する。
 いかにも悪気がなさそうに黒子を嘲笑していた補欠部員の襟首を青峰が掴み上げ、ロッカーに叩きつけていた。
(テツのこと、何もわかってねーくせに……ッ!)
 襟首を吊し上げられて、なぜ自分がそんな目に遭っているのかもわからず濁声で呻くそいつに、青峰がすごむ。
「――試合も出てねーのに、ピーピーうるせぇよ。耳障りだから少し黙れ」
 青峰は特に大声で怒鳴ったわけではなかった。その低い声はむしろ抑制的だったほうだろう。
 だが、騒然とする周囲はまったくうるさい。
「青峰っ?」
「何やってんだ、放せ!」
「なんで、いきなりキレてんだ!」
「青峰! やめろ!」
 キレるとかどうとか、そういうことではない。
 こんな腐った奴は掃いて捨てるほどいるものだ。帝光にもたくさんいた。バスケをやってるくせに、黒子の力、その価値、そしてバスケに向けた黒子の精神を理解できないくだらない連中だ。
 だが、そう言いながら、今の青峰はどうだろう。
……。テツ、俺は、)

『光が影を独りにしちまうのが一番いけねーんだな。コートの外で見ていて、それがスゲーよくわかった』

 火神は、黒子をコートに残して自分が交代させられてしまったことを言ったのだろう。そのせいで、黒子のミスディレクションの効果がよけいに弱まった。
 帝光中での青峰の状態とは違う。
 帝光で、青峰はずっとスタメンのエースだった。試合に出れば最初から最後までコートにいた。毎回、必ずスコアラーとなり、誰も青峰に勝てなかった。
 今日の火神のケースとは全く違う、だから関係ない。
『光が影を独りにしちまうのが一番いけねーんだな』
 関係ないはずなのに。
(クソがっ、あのヤロウ、俺の前で言いやがって……!)
 補欠部員の襟首を投げ放して、青峰は無言で踵を返す。
……ゲホっ、んだよ、青峰、急に……
 火神の言葉が気に入らない。
 火神が黒子のペットボトルを開けてやってたのがムカつく。
 火神が自分の首に掛けていたタオルで黒子の髪を拭かせたのには、一瞬、殺意が沸いた。そのタオルごと我が物顔で黒子の頭に手を置き、あんなことまで言いやがって。
 キャップも。
 タオルも。
 低い位置にある淡い色素の頭髪に手を乗せ置くのも。
 かつて青峰が黒子に自然にしていたことだった。だが、そのどれ一つとして、敵として黒子と戦ったばかりの今の青峰には許されない。
 勝負の世界で勝者側から敗者に掛ける言葉などない。
 勝者から気軽に口を開けば、場合によってそれは敗者への嘲りに成りかねないからだ。
 そして、逆に敗者から勝者への言葉は――
 青峰に向けられた黒子の物言いたげな瞳があるのに。
『勝ってから言えよ』
 ――青峰が封じてしまっている。
 だから、あの整列前のすれ違いのとき、青峰も黒子も互いに無言だった。
 今日の試合後に二人が何らかの声を掛け合うなんて、できるはずがない。それは自販機の前でも同じことなのだ。
 火神のあれは青峰への憤りも含んでいたが、黒子のためにこそ青峰と逢せないようにしたのは、相棒として当然だったろう。火神が悪いわけではない。

(ノドが……渇いた)



以上、サンプルでした。



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